牛窓・島の伝説

牛窓・島の伝説

その昔~今からおよそ1800年前~ヤマト王朝の抵抗勢力であった西国(九州)の熊襲が叛乱を起こした。時の天皇、仲哀天皇は、この制圧のため神功皇后とともに難波津(大阪)より船団を率いて出陣。順風満帆な航海の途上、休息でこの地に立ち寄ろうとしたところ、突然の嵐とともに頭が八つの不気味な怪物が現れ、一行に襲いかかった。塵輪鬼ちんりんきと呼ばれるこの怪物は、熊襲に加担した三韓(新羅)が一行の進軍を阻止すべく放った刺客、王子「唐琴」に操られていた。突然の襲来にも怯むことのなかった仲哀天皇は、塵輪鬼を矢で打ち抜き仕留めたが、自らも負傷しやがて崩御。射貫かれた塵輪鬼は首と胴の二つに分かれて海に散り、頭が鬼島【黄島】、胴が塵輪島【前島】、尾が尾島【青島】へと姿を変えた。

天皇崩御に嘆く皇后の目に浜辺を遁走する不審者の影ひとつ。矢を放ち仕留めるとこれが三韓の王子「唐琴」であった。以来、唐琴が射貫かれたその場所が【唐琴の瀬戸】となった。

失意の中、天皇の志を胸に西国へ向かった一行は、無事、叛乱を制圧。しかし帰途、再び立ち寄ったこの地で今度は塵輪鬼の遺恨が牛鬼へと変化し一行に襲いかかった。この時、神功皇后が崇敬しこの地にも祀られる住吉明神が老翁と化して現れ、矢を放ち牛鬼の角をつかまえて引き倒しとどめを刺した。海中に倒れた牛鬼の亡骸が骸島むくろじま【黒島】に、はらわたが百尋岨ももひろそわえ【百尋礁】へと変化した。そしてこれ以降、この地は牛転びうしまろびと呼ばれるようになった。

牛窓の島の名前は、この伝説が元になっていると伝えられています。そして「牛窓」という地名もこの伝説に出てくる「牛転び」が訛り、変化して現在に至っていると伝えられています。
そう言われてみると、黄島には八つの頭があるように見え、青島は確かに細長く尾っぽのようです。前島が胴体だとするととてつもなくでかい怪物ですね。黒島も確かに闘牛の牛のごとく見えなくもありません。百尋礁は、行ってみないと分かりづらいのですが浅瀬に広がる岩礁地帯で、散らばったはらわたのイメージにぴったりです。
この伝説、作った人の想像力が素晴らしすぎると思います。それとも、塵輪鬼や牛鬼は実在していた???
こんなことを頭の片隅に入れて、ツアーに参加していただくとアドベンチャー気分が盛り上がって楽しみが倍増するかもしれません!