瀬戸内海のはなし

瀬戸内海
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トレイル体験ツアーの舞台になっている瀬戸内海について少しだけお話しを。
参加前にご覧いただき、素晴らしい里海、瀬戸内海について興味を深めていただけたらうれしいです。

瀬戸内海の概要

瀬戸内海は、本州と四国、九州によって囲まれた日本で一番大きな内海です。 浮かんでいる島の数は727。この内、有人島はおよそ150とされています。周囲100mに満たない岩場のようなものまで島とすると、2000近いといわれています。島嶼を含めた海岸線の総延長は7,230kmで、東西がおよそ450km、南北は一番長いところで55km、面積22,203k㎡、平均水深は38mで一番深いところでも450m程(豊予海峡にある速吸瀬戸)。全体の約95%が水深70m以内という非常に浅い海になっています。

瀬戸内海の語源は?

瀬戸内海の語源は諸説あるようですが、どうやら現在の明石海峡が関係しているとの説が濃厚なようです。
その昔、明石海峡は「明石の瀬戸」と呼ばれていて、その瀬戸の西側を内側として「瀬戸内」としたのが始まりのようです。さまざまな文献に「明石の瀬戸」「鳴門の瀬戸」など「瀬戸」の内側(西側)を「瀬戸内」「瀬戸内海」と表記したのが始まりというように書かれています。単純ですが、説得力がありますよね。地名って単純に付けられたものが多いですから。

瀬戸内海の自然海岸

瀬戸内海で人の手が加わっていない自然海岸は、海岸線総延長の約37%とされています。日本全体の自然海岸の割合が53%となっていますので、自然の好きな人にとってはちょっと残念な数字かもしれません。しかし、このことは、瀬戸内海が偉大なる生活の海として、沿岸の人々の暮らしを支えてきた証のひとつとして捉えることができます。
瀬戸内海では、だいたいどこを漕いでいても何かしらの人工物が目に入ってきます。どこに行っても人の暮らしの匂いがします。
無垢の大自然を求めて漕ぎ出すには、ちょっと向いていない海ですが、それこそが瀬戸内海の瀬戸内海たるゆえんであり、最大の特徴なのだと思います。瀬戸内海には、人の生息域として地球が与えてくれたやさしさと美しさが詰まっています。初めての方にも手を触れやすい優しい自然がたくさん用意されていますので、ぜひ一度カヤックで漕ぎ出してみてください。

瀬戸内海は水たまり!?

平均水深38mというのは、地球上の海のレベルで見ると水たまりにも入れてもらえないほど浅い海です。
地球上の海の平均水深は、富士山の標高と同じぐらいでおよそ3,800m。一番深いマリアナ海溝でおよそ10,000mの深さがありますから、いかに瀬戸内海が浅い海かが分かります。この浅さは、トレイル体験ツアーをお楽しみいただく際に切っても切れない「潮」にも深く関係しています。

瀬戸内海の潮について

瀬戸内海は、豊後水道と紀伊水道、そして関門海峡の中央水道を介して外海とつながっています。
月の引力に影響されて海面が上下することが潮汐で、一番低い時(下がった時)を干潮、一番高い時(上がった時)を満潮と呼びます。この干満差、牛窓では最大でおよそ1.8mほどですが、瀬戸内海の一番激しいところでは4m近くにもなります。ちなみに世界で一番干満差の大きなところは、なんと、15m(!)もあるそうです。そして、この上下動の際に瀬戸内海では、外海に接している水道を通じて海水が流出入を繰り返しています。この時に起こる海水の流れが潮流で、浅く狭い瀬戸内海では早いところで10ノット(時速19km)の流速があります。
牛窓は瀬戸内海の中では潮の緩やかなところなので潮流図上の表記は最大1.2ノットほど。ただしこれはあくまでも潮流図上の数値で、カヤックが通り路にするようなものすごく狭くて浅い水路は対象になっていません。潮流図上では表現できない狭小水路では、かなり速い流れがあったりします。牛窓でも局所で3ノットぐらいで流れるところがあります。また、岸ベタ(海岸線ギリギリ)を行くと中央部とは逆の流れ(牛窓の漁師は「わいしお」と呼んだりします)があったり、まったく流れていなかったりすることもよくあります。
こういったピンポイント情報は、実際にカヤックで通ってみないとなかなか入手できず、しかもいろんなシチュエーションでさまざまなパターンがあったりするので、経験のみがものをいう世界です。ちなみに、ツアーでみなさんをご案内するガイドは、長年の経験からこういったことを熟知し共有しており、月の満ち欠けと風が分かれば、エリア内限定ですが、見えないところの海面状況もほぼ完璧に把握できます。
ツアーでは持てる情報のすべてを駆使して、楽しく安全にその日のベストなトレイルをご案内させていただきます!
余談ですが、私たちのガイドも通常のガイドエリアを離れると一般的なことしか分かりません。よその海域を漕ぐ時は、その海域をよく知っているガイドに案内をお願いします。それぐらい経験とローカル性(地域に居住していること)がガイドには重要な要素である、と20年近いガイド生活の中で学びました。

瀬戸内海の「分潮嶺」と「へそ」

瀬戸内海は東西に長細くちょうど東と西に潮の出入り口があるので、面白いことに真ん中あたりで潮があたってどちらにも流れないところが存在しています。そしてその海域を境にして東と西で流れる方向がハッキリと分かれます。この潮があたる場所は、愛媛県と香川県の県境辺りから広島県の鞆の浦辺りにかけて南北にスジのように延びていて、潮流図上では、「Slight」(わずかな)という標記があります。
特に呼び名がないようなので、私たちは、このスジのことをわかりやすいように「分潮嶺」と呼んでいます。(専門用語でいう分潮とは違います。そしてガイドが勝手に付けた造語で、山の嶺で川の流れる方向が分かれる分水嶺をもじっています。)
この分潮嶺のある辺りに「魚島」という小さな島があり、ここが昔から「瀬戸内海のへそ」と呼ばれています。地図で見ると燧灘のど真ん中にあって、まさに「へそ」というべきポジションです。
牛窓で東に潮が流れている時、姉妹店のある来島(分潮嶺を挟んだ反対側になります)では、まったく反対の方向に潮が流れています。同じ瀬戸内海なのに面白いですよね。そして人力船しかなかった時代の人は、このような自然の摂理をうまく利用して瀬戸内海を往来していました。考えようによっては、川と違って、どっちの方向にも流れてくれるわけですから、こんなに便利な動力源はありません。しかもほぼ6時間おきにきれいに変わってくれます。熟知すれば強弱も思いのままです。その昔、潮を読み解いた海賊達が瀬戸内海を牛耳っていたのもうなずけます。

晴れの国「岡山」の晴れの町「牛窓」のそのまた晴れの島「前島」

日本の上空には偏西風が吹いていて、この偏西風がおおむね日本のお天気を左右しています。お天気が西から変化していくのはこのためですよね。これは瀬戸内海でもほぼ変わらない状況です。
瀬戸内式と呼ばれる気候の特徴は、偏西風とは違うもう一つの大きな風「季節風」の影響を受けにくいことです。太平洋からやってくる夏の季節風は、四国の山並みがブロックしてくれ、冬に日本海からやってくる季節風は中国山地の山々が遮ってくれます。それぞれの山肌を風が駆け上がるとき、海から持ってきた湿り気を雨に変えて吐き出すので、真ん中でへっこんだ瀬戸内海には山を越えて乾燥した「からっ風」しかやってきません。このため、年間を通じて降水量は少なく、日照時間が多いという、屋外のアクティビティには理想的な気候となっています。実際に岡山県は年間の降水量1mm未満の日数が日本一なのでキャッチフレーズに「晴れの国おかやま」なるものを付けています。その中でも牛窓は、さらに雨が降らず、前島に至っては、わずか250m向かいの牛窓の港がザーザー降っているのに、1滴も降らないなどということがあるぐらい晴れが多いです。岡山市内のお客さまから「すごい雨なんですけど今日のツアーはありますか?」といった電話を受けて「エッ?」となることもしばしばです。

瀬戸の夕凪

海に面した沿岸地域には陸風(オフショア)と海風(オンショア)という風が昼と夜で繰り返して吹きます。
日照による温度変化が緩やかな海水面と、影響を受けやすい地表面の間で起こる気圧差により空気が動く現象です。日中は熱せられ、上昇気流の起こった陸に向けて海から空気が流れ、夜になると冷えた陸から海に向けて空気が流れる、という仕組みになっています。そして昼夜の間の一瞬、両者の温度が一定になった時に空気の動きが止まります。この時間を特別に名前を付けて「朝凪」、「夕凪」と呼んでいます。盛夏の夕凪は特に現象が顕著で、ピタッと風が止んで水面は鏡のように一面の風景を映し出し、周囲は静寂に包まれます。
よく耳にする「瀬戸の夕凪」は、おもにこの盛夏の時期を指すことが多いようです。特別に名付けてもはばかれることがないほど素晴らしい空間が現れます。
夏場のサンセットトレイルでは、静寂の夕凪と島影に沈む美しい夕焼けがお楽しみいただけます。
ちなみにサーフィンでいうところの「オフショアでグッドコンディション」という理屈は、瀬戸内海の場合ほとんど成り立ちません。そもそもうねりというものがないので波と呼ばれるものはほぼすべて風波です。波は常にサーフィンでいうところのオンショア状態が基本ですので、いつでも「ぐちゃぐちゃ」です。

海の路と牛窓湊

瀬戸内海には、「潮待ち、風待ちの湊」といわれて栄えた湊がいくつも存在します。
これらの湊は、船の動力のほとんどを自然の力に頼っていた時代に繁栄を極めていました。
目的地に向け自然の力を利用して船を進めるには、どうしても潮や風に合わせる必要があり、希望の条件になるまで船乗り達が身を宿す場所が必要になってきます。
そのためにちょうど都合の良い場所に船を留め置く湊が整備され、船乗り達が時を過ごす快適な宿や食堂、遊技場などが形成されていきました。
牛窓もこういった湊の中の一つで、播磨灘への出入り口という地理的条件も相まって栄華を極めていったようです。
平安時代末期、平清盛が後に「地乗り航路」と呼ばれる「瀬戸内海航路」を開きました。この「地乗り航路」は櫓こぎの船のために作られた航路ですので本州沿岸沿いを通っていて、湊についても本州沿岸に位置しています。主だった湊をあげると、「赤間関」「上関」「蒲刈」「鞆の浦」「牛窓」「室津」「兵庫津」などがあります。江戸時代に入り木綿でできた丈夫な帆が使われるようになると、帆船の造船技術とともに航海術も発達し、中央の島嶼部を繋ぐ「沖乗り」航路が開拓されました。この航路の湊としては、「木江」「御手洗」「鹿老渡」などがあります。
永きにわたり栄華を極めた瀬戸内海の海運も、鉄道が導入されるようになった明治以降、陸上交通に主役の座を奪われ、大型の汽船が登場してからは、港町の多くは衰退し、今に至っています。海からは抜群のアクセスを誇っていた牛窓も、陸上アクセスとなると非常に条件が悪く、完全に「僻地」となってしまいました。
ちなみに地乗り航路は櫓漕ぎ船での往来が主だった時代に確立された航路なので、カヤックで巡ると結構おもしろいです。「ドンピシャ」とは行きませんが「なるほど!」と納得できる間隔で湊が形成されていることが体感できます。あたりまえですが、今も昔も人力航海は、潮頼み、風頼みということのようです。
カヤックで海に出ると人間の主体性などというものは、ほとんど無視されます。行き先を決めてあそこに何時までに行こうと思っても、潮や風に相談しないとなかなかたどり着くことができなかったりします。私たちはレクレーションでカヤックに乗りますが、当時は日々の暮らしをかけて人力船を往来させていました。地形を読んで場所を決めたり、護岸整備やルールを制定したり、湊には、当時のいろいろな最先端が集まっていたんだろうと推測されます。

瀬戸内海の石切り文化

瀬戸内海沿岸域には、石材の産地が複数あり、どれもかなり有名です。「御影石」「庵治石」「北木石」「大島石」など。
石の質はもちろんのこと、瀬戸内海を通じて運搬がしやすかったことも各地に石切りが栄えた要因といわれています。
豊臣秀吉による大阪城の再建時に、石垣に使う巨石を小豆島をはじめとする瀬戸内沿岸の石切丁場(採石場のことです)から運んだことは有名で、私たちのツアーのベース前島にも「大坂城築城残石群」という史跡があります。
当時、秀吉は諸国の大名に命じて石垣を献上させていて、前島の石切り丁場は松江藩が管理していました。前島の石切り丁場跡には、何らかの理由で日の目を見なかった加工済みの石が残っていて、松江藩主であった堀尾家の家紋も刻印されています。この石は島民から刻印石と呼ばれていますが、かなりの大きさです。大阪城の石垣に使われている石には100トンを優に超えるものもあって、それらを海上運搬していたようなのです。瀬戸内海の船乗り(?)の端っこにいる身としては、やはりそんなデカいものを江戸時代にどうやって運んだのかが気になるところです。いろんな人が調べているようですが、どうやら詳細は判明していないようです。そんなに昔のことではないですし、重機などなかった時代のことですから直ぐにでも判明しそうなものですが、なぜかこのことに関する記録が乏しいようです。また、丁場ごとにいろんな運び方があったようで、それも決定打を見いだす邪魔をしているようです。
前島の石切り丁場は、島の一番高くなっているあたりにあります。ここで切り出した石は、そのまま、急峻な斜面を転がして(というより落っことして)一気に海のそばへ持って行ったようです。その後はおそらく2m近い潮の干満差を利用して船にのっけたんだと思います。海上運搬には船に直接載せる方法とは別に、大きな筏に載せて牽引したり、筏の下に網をつるし半分沈めて牽引したりと色々な方法が使われたと推測されています。
ツアー前、残石群に残された巨石を確認してからお越しいただき、「あんなものどうやって運んだんだ?」と考えながらカヤック漕いでいただくと、ちょっと視点が変わっておもしろいかもしれません。

瀬戸内海の船乗り言葉と漁師言葉

船乗りや漁師、それから島人の間には、いろんなものに海域独自の呼び名があります。
それはそれは、ものすごい数で、しかも隣り合わせる海域でそれぞれに呼び名が違っていたりするので興味深いです。2012年に瀬戸内海沿岸の131ヶ所の港や集落を回って、瀬戸内海に生息する唯一の鯨類「スナメリ」について呼び名を調べました。これは私たちが運営などで深く関わっている「牛窓のスナメリを見守る会」の活動で行ったのですが、その結果、瀬戸内海では、30以上の呼び名があることが分かりました。また、風や潮にも独自の呼び名があって、牛窓の漁師と前島の漁師の間でも微妙に違ったりしています。
簡素な移動手段しか持たなかった時代は、海によってコミュニティーも細かく分断されていて、このようなたくさんの地方名ができたのかもしれません。高速かつ大量移動が可能な現在との「距離感」の違いが感じられるとともに、海を中心に形成されていった瀬戸内海文化の足跡が残されているような気がして、ますます瀬戸内海に興味が湧いてきます。
牛窓に残る海関係の呼び名をいくつかご紹介します。
スナメリは「ナメソ」、舌平目は「ゲタ」、東風は「コチ」、西風は「アナジ」、激潮のことを「イキザカリ」、満潮を「タタイ」「タタエ」「イキヨドミ」、干潮を「ヒダリ」「ヒゾコ」、潮の流れと風が逆で海面がざわついている状態を「サエガタツ」、などがあります。

話は尽きませんが・・・

瀬戸内海のはなしについては、あまりにたくさんありすぎて、ここで書き切ることができません。海賊のことや朝鮮通信使のことなど、興味深い話しはまだたくさんあります。続きが気になる方は、ぜひツアーに参加いただきガイドに尋ねてみてください。